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【50周年記念対談 Ⅰ 】生産者・菅原文子さん②50年で変わったこと、変わらないこと

意欲が生命力のもとじゃないですかね。生きようと思う力こそ大切ですね。

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前回に続いて、山梨県で完全無農薬・有機農業の「おひさまファーム竜土自然農園」で野菜作りにとりくむ菅原文子さんにお話を伺います。創健社の創業時を振り返るところから話が弾みます。

 

●50周年を迎える創健社について

中村:50年前の創業時、私はまだ小学生でした。もともと全く別の仕事をしていた父が、なぜこの仕事を始めたかと言うと、病気がきっかけです。お酒好きが災いして肝臓をわずらって2年間入院した挙句、「これ以上もうできることがないから」とお医者さんに言われて家に帰されてしまいました。それから藁にもすがる気持ちで、民間療法や宗教などあらゆることを試した結果、最終的に行き着いたのが食べ物だったそうです。

そして、まず創健社の前身となる事業所を自宅で始めます。これは当時、ハリウッドスターの女優さんたちや俳優さんたちに支持されてアメリカで流行していたハウザー食品という健康食品を広める仕事で、取り扱い商品の中には、胚芽や乳酸菌、それにケールの青汁など、今に繋がるものがありました。

 

菅原:今の時代にますますぴったりですね。

 

中村:そうなんです。この同じ場所に平屋の一軒家があって、週に1度商品が運び込まれると、物置に入れて、電話で注文を受けて荷造りして、当時は宅急便がありませんでしたから郵便局に持って行って小包で出すという仕事を父と母、そして当時社員というより数名の仲間の人と始めたんですよ。私の最初の記憶は、食卓のテーブルのかわりに2つの事務机が向かい合わせにあって、そこに父と母が向かい合って仕事をしていて、夜になると、机の上のものを全部どけて、テーブルクロスをひいて、そこにご飯を出して、子供たちはその横に椅子を持ってきて食べるという情景です。母が宣伝販売で遅くなる時は、父が食事を作って食べさせてくれたなんていう光景も時々思い出します。

そうこうするうち、父は世の中にいっぱいいい食べ物があると知るようになります。当時は、ちょうど森永ヒ素ミルク中毒事件が起きたり、人工甘味料のチクロの安全性が問題になったり、添加物や食品公害の事件が出て来たりした時期で、父は「こんな状態でいいのか。いいものがたくさんあるのに、みんな知らないし、誰も食べようとしない。自分が知ったものを少しずつみなさんに紹介しよう」と考えて、創健社を立ち上げました。

もともとお医者さんに見放されていたこともあり、両親ともその仕事を長くは続けられないと考えていたようです。でも亡くなるまでの間、少しでも本人が前向きに生きていくためのこととしてやるのにいいのでは、ということで、父と母、そしてハウザー食普及活動の数名の仲間とでこの地で始めたのが「創健社」の始まりなんです。

 

菅原:それが50年続く会社になるなんてすばらしいですね。

 

中村:少しずつ商品を増やして会社が大きくなりかけていた時に、誘われて健康食品の先進地のヨーロッパとアメリカを視察したのが転機になります。

帰国後、父は「どこの店に行っても一番売れているのはサフラワーオイルと言う油で、聞けばどうも血液をサラサラにして心臓の病気の人にいいらしい。俺もあれをやる」と言い始めました。ただし、当時100%のべに花油は日本になく、どこの製油メーカーさんも相手にしてくれません。その時点では無名の会社ですから。

ようやく受けてくれるメーカーさんが現れて「べに花一番」が誕生します。当初は「サフラワー油」という名前だったんですが、ちっとも売れなくて、「日本人に馴染みがいい」と「べに花一番」に変えたあたりから売れだしました。

そのうち百貨店の健康食品売り場に置かれるようになって、百貨店さんから「お中元やお歳暮のギフトセットを作らないか?」と言っていただき、その頃、べに花に含まれている脂肪酸が健康にいいと言われ始めて、そこからべに花シリーズのマヨネーズやマーガリン、カレールウなどを出して、一気にとんとんと急成長させていただきました。

 

菅原:今じゃ創健社と言えば、知らぬ者のない、美味しくて、安心な食品会社ですけど、創業の頃はご苦労なさったんですね。努力すれば必ず実る。そういうお話は勇気づけられます。

 

●オーガニックのその先を提案する

菅原:先ほど、お父様が体を悪くしたとおっしゃいましたが、亡くなった夫も2007年に発病して、お医者さんは「あと半年」とおっしゃいました。それでも開き直って、放射線療法と抗がん剤だけにしました。子ども時代の食べものが作ってくれた基礎体力があったのか、亡くなるまでとても元気で、お医者さんも「農業をやっているのがいいのかもしれない」と言うほどでした。

 

中村:うちの父も39でこの会社を立ち上げて、還暦を迎えた翌年に亡くなったんです。知らない方からは「こういう仕事をやっているのに60で亡くなるなんて短命ですね」なんて言われるんですけれど、そうじゃないんです。医者に見放されてから23年間生かされていたので、この仕事が合っていたんだろうなと思います。文太さんと同じです。

 

菅原:意欲が人を長生きさせるんでしょうね。食べ物も大切ですが、その意欲が生命力のもとじゃないですかね。生きようと思う力こそ大切ですね。

創業者、故・中村隆男

中村:父が設立趣意書の中に入れた言葉に「食べもの、食べ方は、必ず生き方につながって来る。食生活をととのえることは、生き方をととのえることである」とあります。経営理念の中にも「食生活の提案を通して人々の健康的な生活向上に貢献する」と言っていますが、そういうことをうたって50年間、やってまいりました。

化学調味料や合成添加物が入っていないので「自然食品」「健康食品」という言い方で売っていましたが、創業当時、私が子どもの頃はまだ言葉が知られていませんから、「お父さんは何をやっているの」と聞かれるのが嫌で嫌でしょうがなくってですね(笑)。

50年経って、今でこそ、どこでもオーガニックだナチュラルだと、大手のスーパーさんでさえオーガニック専門店を作られる時代になってきました。皆さんの中に当たり前のように根付いてきていて、50年の節目として、うちが今まで世の中に訴えてきた事は一応の区切りはついたのかなと感じています。

 

菅原:そうですね、それと、いよいよこれからだという風にも思います。

 

中村:今まさに次の50年何をしていこうか考えています。今までうちは世の中に対してずっと「これでいいんですか? こうあるべきじゃないですか?」と提案し続けて来た会社なので、その精神は保ち続けます。商品にしても営業にしても「創健社の提案はこうですよ」と常に世の中に出し続けられる会社じゃなきゃいけません。「オーガニックのその先」をめざして、ちょっとおこがましいですけれども、皆さんよりも一歩も二歩も先へ行って、自分たちが、20年後、30年後、50年後の日本の食文化を作っていくんだと言う自負を持って、仕事をしていきたいなと思っています。

 

菅原:オーガニックは新しいようでいて、昔ながらの農法です。オーガニックのその先にあるものが楽しみです。(③に続く)

おひさまファーム竜土自然農園

2009年、故・菅原文太さん・文子さんご夫婦が山梨県北杜市で始めた農園。土づくりから始め、農薬や化学肥料は一切使用しない方針。食材の質と安全性と質にこだわる一流のシェフたちからも信頼を置かれ、農作物を納めている。農業を始めたい人への就農支援や、同様に農薬不使用にこだわる全国の農家の生産物の紹介・販売も行っている。