健康コラム

Health column

創健社はじまりものがたり

はじめに志(こころざし)ありき―。私たちは、創業者中村隆男の健康への渇望と食生活改善への情熱から生まれました。単に身体の健康のみならず、精神、生き方の健やかさを生活の中で実現したい。その必要性、重要性を自らの病の体験によって痛感したからでした。

健康コラム

創業者中村隆男「食は命なり」

-生い立ち

 当社の創業者中村隆男は、昭和4年6月10日、東京府下南葛飾郡砂村字萩(現江東区北砂町)に長男として生まれました。父は嫌な仕事はしない昔かたぎの鉄工職人。8人兄弟姉妹と子沢山だった中村家の家計は苦しく、隆男少年は小学校の遠足にも行けない貧しさの中で育ちました。早く大きくなって、貧乏から抜け出したい―それが少年の夢でした。

 職人の子に学問はいらないと、小学校卒業と同時に奉公に出されるはずでしたが、抜群に成績の良い少年の才能を惜しんだ父の友人が、中学への進学を熱心に勧めてくれました。お陰で昭和17年、都立化学工業学校へ進学。さらに都立理工専門学校(現都立大学)へ進んで、昭和25年に機械工学科を卒業しました。

 しかし、戦後まもないこの時期、学校を出ても満足な就職口はありませんでした。それよりも、隆男の心を捉えたのはマルクスの『資本論』でした。あの時代のまじめな青年の多くがそうだったように、マルクス思想や共産主義に熱中し、理想に燃えて活動に参加しました。

 大家族の長男として家族の生活を支えるべく、昼間は人一倍働き、夜は猛勉強するという生活を送った隆男は、生活力には自信がありました。そのため己を頼む気持ちが強く、また向こうっ気の強い性格でした。やがて知人の紹介で新潟鐵工所にエンジニアとして就職することができましたが、この頃から、「弟や妹のために、もっとおかねを稼ぎたい。いつかは自分で事業を始めよう」と決意したようです。自ら進んで営業職に移り、また財務の勉強をするため夜間大学の経理研究所へも通いました。そして昭和36年32歳で独立し、プラスチック加工会社を興したのです

 独立したといっても、社内結婚した妻と義弟の3人だけの家内工業でしたが、思いがけない幸運が訪れました。独立してまもなくフラフープが大流行し、徹夜で製造しても間に合わないほどの注文が殺到、大儲けしたのです。ところが、好事魔多し。そのお金を元手に事業の基盤を作り、会社も順調に伸びて新たな事業拡大を計画していた矢先、隆男は病魔におそわれました。

-病気は天からの手紙

 昭和38年、34歳の時でした。病名は肝硬変。若さにものをいわせて肉体的にも精神的にも酷使してきたツケが、肝臓に出たのです。主治医にあとわずかな命と診断された隆男は、その後1年半で入院を切り上げ、退院。断食、ヨガ、座禅などあらゆる健康法を実践し、健康に関する本や東洋の哲学書などをむさぼり読み、自然食療法と古新道という信仰に辿り着きました。そして隆男が病気の中でみつけた答えが、「食べ物が人間の生命を作るのだ」というものでした。

 「食べ物を食い改めることは、すなわち、心を悔い改めること。人間は所詮、食べ物が化けたものだから、良いものを食べることによって体の組織細胞が変わっていくはずだ」と考えたようです。

 「ようやく一命をとりとめた私は、その後もあらゆる健康法にチャレンジしながら心の健康回復にもつとめた。『病気は天からの手紙だ。これをどう読みこなすかでこれからの人生が決まる。心を悔い改めねば』と、それまでの肩で風切る式の生意気な日常を大いに反省したのである」と、のちに隆男自身が回想しています(『日経新聞』昭和59年6月22日「交遊抄」)。

 自らを頼み、神も仏も信じないカチカチの唯物論者だった男が、病気という天からの手紙を読み解いて、自然食という肉体の安らぎと、信仰という精神の安らぎを得たのです。

-創健社の設立

 こうした自らの体験を活かし、妻の勧めもあり健康に不安を持つ人々のために、昭和41年6月、横浜市神奈川区片倉町(現片倉2丁目)の自宅に創健社の前身である、ハウザー食普及会関東支局を設立しました。当社の本社社屋は現在もこの地に建っています。

 当時の食品業界は、食品添加物の大量使用など食品公害問題が相次ぎ、安全な食品を求める消費者の声は日増しに高まっていました。こうした時代にあって、日本の食の未来を憂いた中村隆男は、ハウザー食という単一食品の普及にとどまることなく、食生活の改善に役立つ健康自然食品を広く普及させようと、株式会社設立を決意し、昭和43年2月5日、健康自然食品の卸売業である株式会社創健社を妻とともに設立しました。

昭和46年に建てられた新社屋と低温倉庫

-創健社ブランドの開発

 創健社の創業当初は、創業者中村隆男社長の実体験をもとにした体質改善食品の販売に重点を置いていましたが、「食が醸し出す団欒の楽しみも、私たちの選ぶ食べ物の中に保たせたい」と考えた中村隆男は、味噌、醤油、酢など、日本の伝統的食品に着目しました。

 創業当時の食生活は簡便性がもてはやされて、インスタントブームの真っただ中。当時の食品業界は、食品添加物の大量使用など食品公害問題が相次いでいました。「ブームに乗った文明食と称するものを向こうに回し、“忘れ去られようとしている古き懐かしき日本の味”を呼び戻したい」との信念から、中村隆男は埋もれた優良商品を求めて全国各地を歩き、取扱商品を増やしていきました。その後は、取扱商品にとどまらず、自社での商品開発を行い、現在の創健社ブランドは、300を超えるアイテム数となりました。